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私とヒマラヤ
川口 裕幸
昭和53年4月、私は唯、山が登りたくて愛媛大学山岳部の門を叩いた。その時は、岩登りや冬 山登山などをする気は毛頭なく、ましてやヒマラヤなど考えたこともなかった。
1回生も後半に差しかかった頃、山岳部OBからヒマラヤ遠征の話が待ち上った。「ヘー。う ちも仲々やるもんじゃの。」無邪気な私は素直に喜び、先輩達を尊敬の眼差しで見つめていた。
まさか自分が行くことになるとは夢にも思わずに。
2回生になり、3回生になり、何とか岩登りも冬山も自分なりに消化しはじめた頃、延び延び になっていた遠征計画に火が点き始めた。「目標は1982年のプレモンスーン。」隊員候補として、
曽我部先輩は勿論、3回生の佐々木と私も浮び上って来た。「嘘じゃろう。」これがその時の私 の実感だった。山を始めて3年目、まだまだ嘴の黄色い私などにあのヒマラヤなど登れるわけが
ない。それに私はまだ飛行機にも乗ったことがないのに。
1982年6月18日、午後1時35分。私はマンダT峰の頂に立っていた。女神の後髪にしがみつい てやろうと決心してから1年半、一生懸命アルバイトをし、トレーニングをした。卒業を一年遅らせて、その上足りない金を親から出させようとする親不孝者であることを、徐々に両親に理解
させていった。食料係を仰せ付かり、暗中模索しながら計画を立てていった。途中で何度も嫌に なり、投げ出してやろうと思ったこともあった。しかし、こんなこともあろうかと、早いうちか
ら「俺はヒマラヤに登るんだ。絶対に登って来るからな。」と友人達に言いふらしていたので、 最早引き返すわけにはいかなかった。それに何と言っても、ヒマラヤの懐に抱かれている自分の
姿が現実のものとなるかもしれない、と,いう魅力には勝でなかったのである。
私は、いわゆるアルピニストとかクライマーとか呼ばれる人達の仲間入りは、結局できないと いう気がする。私は別に、特別な目的意識を持ってヒマラヤに挑んだわけではない。自分の山行
の1つのステップとして向ったわけでもない。私は唯、ヒマラヤに行きたかったのだ。雑誌のグ ラビアやテレビの画面で見るヒマラヤを、自分の足で登ってみたかったのだ。
これからの自分の山がどうなっていくのか、自分でもわからない。仕事一筋となって山に足を 向けることがなくなるかもわからないし、またヒマラヤの頂でにっこり微笑んでいるかもしれな い。後者の確率がどんどん低くなっていくのを感じる、就職を目前に控えた今日この頃である。
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