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                   登攀の計画と実際

 計画と言っても経験者が一人もおらずルートも解らないので、緻密な計画など組むことができず、国内で自分たちが今まで行なってきたことをそのままヒマラヤにて行なうというぶっつけ本番というのが実際であった。

 計画の最初の段階では、まず我々の実力というものを認識することと、ヒマラヤでの登攀というものがどのようなものかを知ることから始め、最終的に、下記のような基本計画が決められた。

 1)登山形式は極地法を採用すること(高度順化の為)
 2)BC以上ではポーターを使用しないこと。
 3)ルートの選定に関しては、雪枝や岩稜および雪壁にルートを取ること。
   (難度としては、前穂の北尾根や槍の北鎌尾根を想定した)
 4)登山期間は5月1日〜5月31日とすること。

 結果として、我々の選んだマンダT峰はこのような条件にうまく適するという幸運に恵まれたわけである。しかし、出発の遅れや諸問題から隊員の減少や登山時期の遅れなどの問題が起こり、極地法より、荷上げ量や日数が少なくて済むカプセル方式を採用することも考えたが、高度順化や悪天の時の対処の仕方などこれも問題が多く、結局、高度順化できたものが常に上部キャンプで行動するということに落ちついた。しかし、少人数による荷上げ能力の低下とモンスーンとを考慮して登山期間を20日間として、タクティクスを考えた。心配された高度順化では、全員が大なり小なりの高度障害をおこすこととなったが高度障害はヒマラヤ初見参の者ならかかるはしかみたいなもので、高度順化の失敗とは言えない。ただ、高度障害を軽くするための日本でのトレーニングにおいて、我々に甘さがあったのは確かである。

 ルート選定に当ってば、写真と地図のにらめっこの末、圧到的に切れ落ちたマンダ東面は除外し、雪稜・雪壁の多い西面のケダルガンガ側から入山し、マンダ西面の氷河を遡り、北稜からアタックするという基本方針を立てることとなった。実際は氷河の登高において心配されたアイスフォールの登攀も氷河の規模が小さいことから難なく突破できたし、北稜への取付も40°〜60°の雪壁であったため事なきを得、第2キャンブ(5,600m)までは順調に進むことができた。しかし、北稜の登攀にかかってから、もろい岩稜やナイフエッジの雪稜のルートエ作に日数がかかりすぎたのと良いテン場が無かったことから、当初予定した第3キャンプの設営はあきらめ、第2キャンプからアタックをかけることになった。頂上まで標高差が900 m と高度差がありすぎワンビパークの必要性も感じられたが、ジャンクションピーク(6,000m)までフィクスをベタ張りにすれば、フィクスまで帰りつけばなんとかキャンプまで帰れると判断した。結果的に、ジャンクションピークから頂上までが40°〜60°の雪壁の連続であったことから、ビパーク無しでアタックを終えることができた。また、我々の高度計は頂上にて6,330mまでしか示さなかったが、この200 mの差が高度計自身の狂いなのか、マンダT峰が実際200 m低いのかはわからないままである。

                                 (記 曽我部知行)