バナー
本文へジャンプ  

 

              遠征計画発足から出発まで

 昭和54年5月、総会において、海外遠征研究会をもつことが決議された。 MandaT峰への第一歩は、この時にはじまったのである。

 ニュージーランド遠征以降、10年後を目指し、ヒマラヤヘのアタックを目標として、研究が開始されたのである。主に、岩井助教授の部屋を集会場として、月一回、現役を含め、出席できる0.B.は、誰でも集まってきた。そして、それぞれの意見を出し合った。

 当初は、私の個人的意見もあって、カラコルムを中心として研究が進められた。カラコルム、シアチェン氷河河畔のリモ山群を中心に、話題が具体的になったのは一年後であったろうか。地図をはじめ、かなりの資料も集まったころ、具体的計画の段階で、難関に突き当ったのである。リモ山群へのアプローチが、一ヶ月近くも要することと、我が山岳会の実態との格差を認めざるを得ない点であった。しかし、谷渕君など、若手は、リモを捨てきれない様子であった。

 そのころであったろう。(昭和55年)インドヒマラヤのガンゴトリ山群への登山が解禁になったという情報を人手した。計画に行き詰まりを感じていた我々には、何よりの話と受けとったのである。

 研究目標は、一変して、ガンゴトリに集中した。この山群は、6,000m級の山群ではあるが、解禁直後のことなので、未登峰山群である。まず、Mt.スリカイラス(6,932m)を第一目標とした。その外に、目標とした山の中に、Mandaも含まれていたのである。

 昭和56年3月末、I.M.F.(インド登山財団)へ、登山許可申請の一報を入れた。同年5月の返信には、Mt.スリカイラスは、ネパールと、中国との国境近くに位置しているという理由で許可はおりず、Mandaへのパーミッションが下ったのである。昭和56年5月の総会において研究会が、実行委員会に変更され、実現の見通しが立ったのである。

 出発前になって、隊長の私が、参加できなくなり、急拠、佐々木氏に代役を依頼しなくてはいけないアクシデントも生じ、また、登山ビザが一ケ月も遅れるというハプニングもあったが、遂に、昭和57年5月22日、難産の未、本隊が高浜港から出発するに至ったのである。

 遠征計画発足当時から、出発に至るまで、この研究会に参加され、御尽力をいただいた、岩井正浩、中村信明、茨本教道、各氏をはじめ、その他多くの会員に、心から御礼を申し上げたい。

                      ヒマラヤ遠征実行委員長  岡 田 恒 則